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占いと魔法とオタク
幻想自警団通信文Z

幻視研(げんしけん)

およそ幻視というものは、魔術的作業の根幹ではあるものの、その種類を分類すれば、数多の幻視があると言えよう。

ここではいくつかその代表的なものを取り上げて、それがどのように術者に影響を及ぼすのか、その感覚的な部分を伝えて行きたいと思っている。

まず、私が日常的に行っている幻視は一般的に「妄想」と呼ばれているものに違いない。なぜこれを日常的に行っているかと言えば、早い話がリスクがほとんど無いからである。

後述するが、本格的な幻視を行った場合、そのリアリティや得られる情報が克明である反面、そのリスクもかなり高いものになると言って良いだろう。

この辺りの感覚は経験者なら理解できるだろうが、下手をすると健康を害するほどのリスクを背負いながらの幻視など、現在の発達した映像媒体の高品位さを考えれば、無用の長物とさえ思えてくる。

過去の幻視者がなぜその幻視に健康を害するまでに没入したかと言えば、ひとえにメディアが未熟だったからで、今のテレビや映画の映像レベルを考えれば、安全な「妄想」の範囲内で、幻想のイメージを司る方が極めて効率的だろうと思うのである。

ただ、そうは言っても「無意識の探求」とか、「神的イメージとの対話」などと言い出した場合、やはりある程度のコンセントレーションと疲労感を伴う幻視を行うことには意味があるのかもしれないが、そんなものの為になんらかの健康障害やイメージの自律的発動による日常生活の危機などを対価として支払う人間がいるとすれば、それは多分「極まった好事家」以外にいないだろう。

話がそれたが、つまるところ過去の術者が大変な苦労をしてまで完璧なリアリティを持ったビジョンを見ようとした訳は、過去にそれが存在しなかったからであり、アニメの美少女(美少年)を妄想してその世界観の中で活動するイメージに没入できるなら、なにもわざわざ魔術を学ぶ必要は無いとさえ、私などには思えて来るのである。もちろんこれは魔術を本格的に実践している方々を批判しているわけではなく、あくまで幻想を楽しむならばという意味での私の個人的な見解である。

さて、本題だが、幻視を行うと言ってもそのレベルには千差万別多種多様のものがあり、前述の通り私が好んで行うのはその中でも一般的に「妄想」と呼ばれる次元のものである。

これは、経験者が多いだろうから改めて解説するまでも無いだろうが、それでもかなりな心理的な影響力を持った幻視の一種だと言えるだろう。

人によって違いはあるかもしれないが、私の場合、アニメや音楽、時には小説などを読んでいる最中にその世界観が脳内に展開し、気が付くと目の前のアニメや小説を完全に無視した幻想空間の中で、「自己の投射されたイメージ(早い話がゲームのプレイヤーキャラクターみたいなもの)」を私の意識が司り、そのキャラクターになりきった上で幻想世界の中を冒険するということがある。この際、私はその妄想(幻視)のきっかけとなったアニメや小説そのもの自体は全く「見えなく」なっていて、目を見開いていながら意識は完全に脳内のイメージの中での活動を行っており、つまりは「夢を見ている」のと同じ状態になっていると言って良い。

また、この作業の良いところは、外部からは私が何を「妄想」しているのかを把握できないことであり、私は自動的な作業を肉体に行わせながら外部の人間を欺く(あざむく)一方で、脳内では「美少女と一緒に戦いに向かう」ようなことを実現しているのである。

上記事柄は基本的に魔術的な幻視の初歩と同じだと言っても過言では無いのだが、ただ、魔術と妄想が決定的に違うのは、妄想が個人のオリジナルな記憶に依存するのに対して、魔術においてはこれを元型的イメージに統一することで、複数の人間で同時に同じイメージを見る、というようなことを実現させている点である。これは驚異的なことである。

魔術の実践者の根源的イメージは「象徴」と呼ばれ、これを学習することが魔術における修行そのものだと言って良い。そのため象徴体系の異なる魔術結社が共同で魔術作業などを行う場合はより元型的なイメージを使う必要が有り、それがキリスト教のシンボリズムになったり、あるいはギリシア神話になったりするわけである。

私は日本人には西洋魔術は向かないと思っているのだが、その主な理由のひとつとして、西洋魔術の象徴体系がそもそも西洋人のために構築されたものであるため、我々日本人にはそのイメージを捉えることが非常に難しいと感じた、ということがある。しかしながら、それでもその魔術的体験にはエキゾチックで甘美な魅惑が秘められていることもまた事実である。

そこで妥協案として私が考え出したのが、「セーラームーン」のキャラ設定を利用するという実にアクロバティックな方法であった。

セーラームーンのシンボリズムは、根幹の部分ではきっちりギリシア神話に対応している。西洋シンボリズムと我々日本人を結ぶ、これほど便利なコモンイメージは他に無いだろう。他に「聖闘士星矢」も考えたのだが、こちらはシンボリズムが車田系になっており、西洋魔術とはリンクできない。故に、西洋魔術にも使えるアニメキャラクターは「セーラー戦士」ということになる。更に幅を広げるなら、「セーラー」のイメージから「アルゴ探検隊の大冒険」を想起し、そこから更に深い魔術的イメージにリンクさせることも可能かもしれない。また、カレンダーと時計を使った魔術を実践する人間は、ユリウス暦の構造上、その時間単位で各セーラー戦士たちと戯れることが可能となる(詳しくはこのサイトの中にある「ユリウス暦」の文書を読むべし。カレンダーと時計の魔術的活用の基本が理解できるだろう)。

またもや話がそれたが、以上が妄想レベルでの幻視の特徴である。さて、更に別の幻視について語るならば、それは例えば「覚醒夢」のようなものがあるだろう。私も以前、これを見ることを日課のようにしていたことがあったのだが、しかし、これには非常に重大な欠点があった。それは、「ものすごく疲れる」ということなのである。どういうことかと言うと、夢はそもそも睡眠状態で見るものであるが、覚醒夢においては肉体は睡眠状態でありながら、脳は完全に起動している。睡眠状態ということは外部からの情報が完全に遮断されているということであり、その失われた情報を脳内で再構築しなくてはならず、これが相当なオーバーワークとなるのである。本来普通の夢であればそれがかなりいいかげんに構築され、脳の疲労はそれ程ではなく、逆に休養になるのであるが、しかし覚醒夢においてはそうはならない。極めて明確なイメージを脳内でリアルタイムに構築しなくてはならないため、ほとんど「過剰負荷」とも言えるような疲労を脳が起こしてしまうのである。

私の悩みは覚醒夢を見た後の脳の疲労、場合によってはその疲労から来る頭痛、めまいなどの健康被害だった。そのため、ある時期から私は一切この覚醒夢は見ようとも思わなくなった。

ただ、この覚醒夢にはいろいろとメリットもあり、私がこれを使わなくなったのは、肉体疲労をおしてまでそのメリットを取るべきかどうか、という部分において、「私に」は必要無いと感じただけであって、これに大きな意味を見出す人間もいることだろう。

特に宗教的な神秘体験などを目的とした場合、この覚醒夢は時に重大な意味を持ったりする。私もかつてそういった神秘体験の意味を持つ覚醒夢を見たことがあるが、あれは人の名前を一度聞けばそのあとはその名前を自由に使うことができるようになるのと同じで、一度見れば十分なものである。だが、一方でそれを宗教儀式として活用する人物や団体があっても全くおかしくは無いとも思われる。というか、宗教的な神秘体験とは、主にこういった覚醒夢によるものであるとさえ言っても過言ではないだろう。

さて、最後にもうひとつ幻視の種類を紹介するなら、いわゆる「幻覚(この場合は視覚の幻覚を指す)」というものがある。

「幻覚」と言うと聞えが悪いが、しかしこの幻覚、あながちバカにできない。幻覚のイメージから思考を飛躍させ、何らかの問題を解決したり、あるいは幻覚のイメージによる心理的な影響から、肉体的な問題を改善させる(つまりカウンセリングとか心療内科的な効果などを得る)ことができる、というメリットがある。つまり「幻覚の医療的活用」が可能なのである。そもそも「霊視」と呼ばれるものはこの「幻覚」を制御しているわけで、そこに霊がいるかどうかは別として、そういった幻覚を元にカウンセリングを行い、「まがりなりにも」成果をあげている人間も存在している事は確かなのである。もちろん重要なのはその「霊視」の能力ではなく、それを利用した「カウンセリングの能力」であることは言うまでも無い。極端な話、霊がいようといまいと、カウンセリングの能力さえ高ければそれで「腕利き霊能力者」にはなれるのである。

ただし、私はこれ(幻覚の制御)は基本的にはまたいで通ることにしている。というのは、以前タロットに傾倒していたとき、そのイメージが自律的に動き出し、その制御に相当苦労したことがあったからである。もう少し分かりやすく言うと、霊能者が「霊が見えない人の方が幸せだ」と言うようなもので、見たくも無いものを見るようにはなりたくない、と言えば理解して頂けるだろうと思う。

上記に関連する事柄なのだが、魔術作業においてどうして「日常と完全に切り離された空間」を作らなければならないのかというと、日常でそれが起こると、もはやそれは「精神障害」以外の何物でもなくなってしまうからであり、魔術作業を行う際は、それの始まりと終わりをきっちり宣言し、その時間は別世界にいるというくらいの設定を行わないと、極めて危険なことになる。西洋魔術におけるカバラ十字、結界、開場、閉場、などは、そういった危機から術者を守る重大な作業であって、決してこれを軽んじてはならない。もっと言えば、魔術師が儀式の際に「特徴的」な法衣をまとうのも、日常と魔術作業とを隔離するためのひとつの手段なのである。その効果はオカルト的な意味よりも、むしろ心理的な防衛にある。

以上、幻視のいくつかについて解説した。上記は私の個人的な解釈なので、意見の相違がある方もいるだろうが、それはこの手の文書のお約束みたいなものなので、どうかご了承願いたい。

長文をお読み頂き心よりの感謝を申し上げたい。

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