占いと魔法とオタク
幻想自警団通信文Z

西洋魔術と催眠法

西洋魔術の術式と、催眠法はその手順からして重なり合う部分が多い。特に顕著なのはその幻想状態への導入方法である。

西洋の魔術の歴史の中にひとつのエポックを築いた「ジョン・ディー博士」による「エドワード・ケリー」との霊視実験は、水晶球を覗き込んで行われた。催眠法においても「凝視法」という術式があり、そこで水晶球を使用する場合がある。催眠的には、キラキラした光るものや目を疲れさせるようなものを凝視するとその被術者が幻想状態に入りやすくなるということが広く知られている。

幻想状態に入った人間にステートメントを与えればそれはもう完全な<催眠法>であり、色々と不思議な現象を引き起こすことが可能になる。

女性に対して宝石を贈ることがひとつの恋愛的な効果をもたらすのは、つまり宝石の輝きに目がくらんだ瞬間は女性が幻想状態に入っているということであり、ここですかさず愛の言葉を<唱え>れば、それが暗示として女性の胸に沁み込み、効果を上げる可能性が高い、ということである。また、逆にそこで<呪いの言葉>を唱えれば、不幸なアクシデントを自ら<無意識>に引き起こすだろうことも考えられる。これらは催眠的には十分に考えられる話である。

催眠法の中には「混乱法」と呼ばれる技法もある。意味のわからない言葉を理解させようと努力させ、結局意味が通じずに、そのままフィーリングの世界、すなわち幻想状態に突入する、という手順である。これなども魔術書に書かれている意味不明な祝詞やら呪文やらで幻想状態に入る手順に近いものがある。これらは一切意味不明な言葉より、微妙に意味がわかりそうで実際には意味がわからない、というような言葉のほうが効果が高いと思われる。一度意味を把握しようと集中させた後にそれを諦めさせ、<感覚的>にさせるということが催眠導入としては効率的だろう。

西洋魔術において非常に重要視される術式に「呼吸法」があるが、これも催眠導入の方法として催眠法で良く使われる方法である。呼吸に集中させることにより意識を内面に向け、更に疲労することで催眠状態に入りやすくするのである。

他には催眠法で言う所の「メトロノーム法」などがある。これは単調なリズムを刻むことで幻想状態に導く術式であるが、これなども西洋魔術ではないが、日本でおなじみの宗教道具である<木魚>などにその関連を見ることができる。

幻想状態に入った後の技法としては「アンカーリング」などというものがあり、これはある特定の言葉とイメージとを結び付け、その言葉を発したり聞いたりしたときにそのイメージが<再生>されるように条件付けをする、というような技術である。これなどは西洋魔術の根幹的な技術に重なっていると言っても良いのではないだろうか。

西洋魔術において<幻視>はひとつの重要なイベントであるが、これも催眠法で再現することができる。ただ、催眠法においてはその幻視のイメージが個人の記憶に依存するのに対して、西洋魔術においてはそれらのイメージを初めから同志の仲間内で揃えておくという作業を行う。これにより同時に複数の人間が同じ幻想空間で活動するという、極めて高度な<幻想作業>を行うことが可能になる。この基本になるイメージは大体がギリシア神話、エジプト神話、あとはタロット、ヘブライ文字、占星術のシンボル、などであり、それに万物照応を加えると完全な魔術体系ができあがるが、万物照応はその魔術結社ごとに異なるため、異なる魔術結社同士で万物照応を利用した魔術的儀式を執り行うのは普通は無理だと思われる。つまり、<言語が違う>のである。PC的な言葉で言うなら<互換性>が無いので同じイメージを<共有>できないだろう。

ところで、<幻視>を行う場合、それが魔術であれ、催眠法であれ、そこに出現するイメージ群は自分の想像した、既知のものだけかというと、そうではない。大体自分が想像もしていないようなイメージが立ち現れて驚愕することが普通である。これは自分が眠っているときに見る<夢>を考えてもらうと良いだろう。夢の中に出現するイメージは自分の知っているものだけではなく、時に極めて意外なものが全く不自然に現れることがある。人間の精神の中には自分の意識のほかにもう一人の<意識されない自己>がいる。この存在を意識するかしないかで、自己の精神の制御の可能性が変わってくる。もちろん、手綱を握るのは<意識される自己>の方でなければならない。西洋魔術における<聖守護天使>も、<悪魔>も、<意識されない自己>である。<聖守護天使>に「島を持たねばならない」と言われ、それを言葉通りに受け取って、本当に島に住むのはいかがなものか。判断は<意識される自己>がしなくてはならない。<聖守護天使>は良いことを語るのかもしれないが、それが自分にどんな意味があり、どういう行動をとるべきなのか、という<判断>は、<意識される自己>が行うべきである。得られた情報を処理し、それを<判断>するのが<意識される自己>、すなわち<自我>の使命なのであるから、天使の権威に負けてお告げの<言葉通りの行動>を行うのは、人間としての使命、ひいては自我の<存在意義>に反すると、私などは考えている。

もっとも、上記の例について言えば、それが<聖守護天使>に対するひとつの<ジョーク>だったとすると、それならそれで悪くない判断であろう。

2005/3/13

「理論編その3」へ戻る

「更なる深淵へ」の目次へ戻る

「占いと魔法とオタク」のホームへ戻る